日本の造園方法を変えた三重サツキ
赤塚充良の間近で仕事をしてきた社員が、取り組みやエピソードをクローズアップし、その人物像に迫るコーナー『萬古清風』(ばんこのせいふう)。第6回は「日本の造園方法を変えた三重サツキ」です。
※掲載内容は発行当時のものです。
日本の造園を変える
アメリカで大規模な農業経営を体験して、昭和34年に帰国した赤塚は、故郷を豊かな農村に変えようと造園用サツキの大量生産に取り組み、三重県を日本一のサツキ生産王国に育て上げました。同時に、サツキを寄せ植えして刈り込み、短期間で広大な庭園を完成させる造園方法を提唱し、自ら新しいマーケットの創造に努めたのです
時代は高度経済成長期を迎え、公共緑化のために予算がたくさんおりるようになってきました。契機となったのは昭和39年に開催された東京オリンピックです。この頃から単一樹種を大量に植え込む造園方法が認められ、サツキの需要が爆発的に増加していきます。すぐに造園できるサツキは貴重な緑化樹種となって日本の造園風景をしだいに変えていきました。
転機となった大阪万博
ピークを迎えたのが昭和45年に開催された大阪万博でした。丘陵地を造成した広大な会場を短期間で緑化しなければならなくなった時、大量に供給できたのが三重のサツキでした。赤塚は連日集荷に入ってくる何台もの大型トラックを陣頭指揮で配車し、サツキの出荷を続けたといいます。その後、赤塚が普及に努めた造園用サツキが「三重サツキ」と命名されてブランド化し、三重県の特産品として認められたのです。
しかし、植木産地でもなかった三重県が、彗星のごとくサツキの大産地として現れ、不動の地位を獲得していったのは、赤塚の熱意がみんなを動かしたからです。
「おひたしに もならない」と敬遠されていたサツキを普及するために、赤塚は三重県植木振興会のメン バー40余名を連れてアメリカの植木産地の視察に出かけました。揃いのベージュのジャケッ トとエンジ色の蝶ネクタイをあつらえ、2週間かけて産地を視察して回りました。移動のバスの中でもマイクを離さず自分の想いを語り続けた赤塚の情熱に動かされ、また初めて見る広大な農地に日本との大きな違いを肌で感じた一行は、帰国後は先頭に立ってサツキの産地づくりに邁進し、大阪万博を追い風にサツキの生産が本格化していきました。
大阪万博会場を飾ったサツキによる新しい公園緑化方法が造園業者により日本中に広まり、全国で三重サツキが大量に使用されるようになりました。サツキで豊かになった故郷の農村には「サツキ御殿」がたくさん建ったといいます。
「三重サツキ」ブランドを守るために
日本列島改造ブームに乗って大手企業にも緑化部門ができ、サツキを始め植木類は品質の善し悪しを問わず飛ぶように売れていきました。しだいに三重県の植木生産者の中には、赤塚を通して販売していたサツキを自分で直接取引する者も出てきました。生産者も卸売業者も個人の利益に走り、不当な値引き競争や不当な価格での買い取りをするようになり、いざこざが絶えません。
価格を安定させ安定供給できなくては産地としての信用を失い、他県に産地が移りかねないと危惧した赤塚は、昭和47年に三重県グリーンクラブ(三重県植木需給協議会の前身)を設立し、39歳にして初代会長を務めました。赤塚は天性の人当たりの良さと公平な言動から人望を集め、みなをまとめていったといいます。また、卸業者と生産者が一体となって、産地全体のことを考え、産地としての信用を重視するよう先導したのです。
翌年の昭和48年の末、突然第一次オイルショックが起こり、大不況がやってきました。 日本中から灯りが消え、高度経済成長が終焉を迎えたのです。あれほど日本中から注文が殺到していた植木類にぱったりと注文がこなくなりました。需要と供給のバランスが崩れ、売れなくなった植木は安売り、投げ売りの対象になってしまったのです。
しかしそのときには、すでに赤塚によって、三重サツキの生産者と卸業者は需要と供給を正確に読み、適正な標準価格を設定し、相互に守る仕組みができ上がっていました。その結果、「三重サツキ」のブランドは守られ、今でも三重県の特産品として確固たる地位が保たれています。
(文・西村富生)
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著者紹介
西村 富生(にしむら とみお)
㈱赤塚植物園 執行役員。生物機能開発研究所研究開発部長。学術博士。
昭和24年三重県生まれ。昭和50年三重大学大学院農学研究科終了。同年赤塚植物園入社。
入社以来、新しい園芸植物の生産に携わる一方、花木類の組織培養法を開発する。また赤塚充良のもとで水の研究を続け、FFCの開発と応用利用の研究を担当している。
(2009年7月発行 FFCテクノロジーニュース vol.7より)