サツマイモ畑からの出発
赤塚充良の間近で仕事をしてきた社員が、取り組みやエピソードをクローズアップし、その人物像に迫るコーナー『萬古清風』(ばんこのせいふう)。第1回は青年時代のエピソード「サツマイモ畑からの出発」です。
※掲載内容は発行当時のものです。
農家の長男に生まれる
農家の長男に生まれ、両親に代わり一家を支える赤塚充良は、現在の赤塚グループ本社がある高野尾村(現 津市高野尾町)に、中規模農家の長男として生まれました。
津市の中心街からずいぶん離れたこの農村は、川沿いに連なる水田と黒ボクと呼ばれる火山灰土の畑からなり、畑には主としてサツマイモが栽培されていました。当時、農家の長男は家を継ぎ、次男三男は職を求めて村を離れるということが普通でした。長男だった赤塚は、いずれは家を継ぎそのまま農業に従事するものと周囲から期待されていました。
ところが旧制中学3年生の時、祖父母と両親が相次いで倒れたため、学制改革で新設された新制高校や大学への進学をあきらめ、予定より早く家業である農業を継ぐ決意をしたのです。すべての作業を人力や家畜に頼っていた当時の農業を続けていくには、どうしても男性の労働力が必要だったからです。
15歳で一家の大黒柱に
赤塚は中学を出たばかりの15歳で一家の大黒柱として働き始めました。
当然、農業経営も両親と相談とはいえ、自分の判断が重要になってきます。常に経営者として物事を考え、資金繰りや採算を考えながら働くこと、すなわち高度な経営感覚が必要だったのです。
農家には共同の出合い作業がありますが、若くして地元の大人達と一緒に作業をこなしながら世間の仕組みを学び、農協からの農業資材の仕入れ、収支や採算の事を考えながら仕事を進める。このことは赤塚にとって、自立心と経営者としての自覚が生まれる貴重な経験となりました。
当時の日本はまだまだ農業国で農業が産業の中心であり、専業でも何とか生活できたものです。しかし、父親の体調が回復し労働に復帰して余裕が出てくると、水稲とサツマイモだけの栽培に満足できず、いろいろな農作物を探して栽培を試みました。
まず着目したのがスギやヒノキなどの山林苗木です。当時の日本の山は、戦時中に大きな木がほとんど伐採されてはげ山になっており、国土緑化が国の方針として進められていた時代でした。
山林苗木の生産は順調でしたが、所有する土地の面積で収入が決まってしまう傾向があったので、より付加価値の高い農作物を求めていろいろな情報を集め、栽培にチャレンジしてきました。アメリカに輸出するグラジオラスの球根栽培もその一つです。
この時、赤塚の中には、自分の置かれた境遇に対して不平不満を抱くのではなく、まず現実を受け入れてから与えられた条件の中で最善を尽くすという人生観が生まれました。
また若くして一家の大黒柱として働いたことから、経験を通じて経営者としてのセンスが磨かれ、すべての物事を経営者の目で見ることが可能となったのです。
両親や祖父母の影響
人の性格の形成には家族、とりわけ両親や祖父母の影響が大きいといわれていますが、赤塚の場合はどうだったのでしょう。
父親は一人っ子で温厚なまじめな性格でしたが、若い頃戦争に行き体を壊し、その後遺症から体調に不安があり、気弱になって攻めの経営ができなかったようです。
母親も病弱で、家族の世話をするのが精一杯だったといいます。
一方、祖父は農家という狭い範囲内でしたが、いろいろなことに興味を示し、多角的な経営にチャレンジしていました。
リーダーシップもあり、生涯現役で元気に農業に励み、祖母も祖父と一緒に生涯農作業に従事し、天寿を全うしました。
桁外れに大きいことが大好きな赤塚の性格は、家族からの影響というよりアメリカでの農業研修が大きかったようです。
しかし、地元で思い切り事業に取り組むことができたのは、両親や祖父母が地域の人々から厚い信望を集め、その地盤を築いてくれたからだと赤塚はいいます。
まさに先祖が永年積み上げてきた「徳」という貴重な遺産を受け継いだのです。
(文・西村富生)
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著者紹介
西村 富生(にしむら とみお)
㈱赤塚植物園 執行役員。生物機能開発研究所研究開発部長。学術博士。
昭和24年三重県生まれ。昭和50年三重大学大学院農学研究科終了。同年赤塚植物園入社。
入社以来、新しい園芸植物の生産に携わる一方、花木類の組織培養法を開発する。また赤塚充良のもとで水の研究を続け、FFCの開発と応用利用の研究を担当している。
(2008年4月発行 FFCテクノロジーニュース vol.2より)