赤塚充良の間近で仕事をしてきた社員が、取り組みやエピソードをクローズアップし、その人物像に迫るコーナー『萬古清風』(ばんこのせいふう)。FFCテクノロジーニュース2号から17号(2008.1~2011.10)に掲載。
※掲載内容は発行当時のものです。
目次
- サツマイモ畑からの出発
- アメリカへの旅立ち
- 真のリーダーシップを知る
- アメリカで運命の自覚をする
- 帰国後サツキ栽培に挑む
- 日本の造園方法を変えた三重サツキ
- 命がけの“水浸け作戦”
- 洋ラン生産の大革命
- 高嶺の花、洋ランを多くのご家庭へ
- 日本とブラジルの架け橋
- パイロゲン誕生
- 園芸先進国に学ぶ
- お部屋に緑を!インテリアグリーンの仕掛人
- アメリカの先進農業と渡米農業研修
- 天皇陛下にご高覧を賜る
- 天皇杯受賞
序文
赤塚グループの創業者であり、今なお時代の先頭を駆け続ける赤塚充良は、昭和8年、三重県の小さな農村で、農家の長男として生まれました。
昔の赤塚のことを知る人は、幼少の頃の赤塚は非常にやさしい気質で、「質実剛健」を日本男児に求めた当時の日本では珍しい存在だったといいます。
どちらかといえば、花や植物と接することを好み、喧嘩や争い事が嫌いで、小学校の徒競争では、スタートの合図の音に驚いて、いつも出遅れていたといいます。
そんな赤塚が現在のように、会社経営者としてリーダーシップを発揮し、また日本の園芸界で一時代を築いたカリスマとして今なお語り継がれている背景には、一体どのような道程があったのでしょうか。
若い頃から赤塚の傍で仕事をしてきた私は、この長い歳月の中で、多くの物事や考え方を赤塚から教わってきました。
赤塚は常に「どうすれば世の中のためになるか」「何をして社会に貢献するのか」ということを自問自答し、次から次へと新しい事業を創出し、挑戦し続けてきました。
昼夜を問わず、時には夜通し思案にふけることもしばしばだったといいます。
そして新しい考えが思いつくと、私たちに語って聞かせてくれました。その内容は経営のことや事業のこと、あるいは赤塚自身の夢や人生論に及びます。
自ら新しい風を起こしながら、疾風のごとく時代を駆け抜け、わずか一代で農家から現在の赤塚グループを築き上げてきた赤塚充良という人物を、33年間、赤塚の下で仕事を続けてきた私の視点で見つめ直し、書き綴っていきたいと思います。
それぞれのエピソードについては、私が赤塚自身に聞いた話や、赤塚と所縁のある多くの方々から聞いた話を元に、あえて時代の前後にとらわれずに無作為に記していきたいと思います。
(文・西村富生)
著者紹介
西村 富生(にしむら とみお)
㈱赤塚植物園 執行役員。生物機能開発研究所研究開発部長。学術博士。
昭和24年三重県生まれ。昭和50年三重大学大学院農学研究科終了。同年赤塚植物園入社。
入社以来、新しい園芸植物の生産に携わる一方、花木類の組織培養法を開発する。また赤塚充良のもとで水の研究を続け、FFCの開発と応用利用の研究を担当している。
(2008年4月発行 FFCテクノロジーニュース vol.2より)