アメリカで運命の自覚をする
赤塚充良の間近で仕事をしてきた社員が、取り組みやエピソードをクローズアップし、その人物像に迫るコーナー『萬古清風』(ばんこのせいふう)。第4回は「アメリカで運命の自覚をする」です。
※掲載内容は発行当時のものです。
自分の生まれを変えることはできない
赤塚はよく「自分の運命を自覚したのはアメリカでの農業研修の時だった」といいます。
カリフォルニアの果樹園で働いていた赤塚は、仕事が終わった後は、たっぷりと時間があったので、毎晩のように同じ宿舎の仲間達といろいろな話を繰り広げました。その中でも特に真剣に話し合ったのは、人の運命とか人生の価値についてでした。
戦争に敗れて荒廃した日本、狭い農地、慢性的な食糧不足。仲間の多くも貧しい日本の農村出身です。それに比べて、アメリカでは物があふれ、同じ年頃の若者が大きな自家用車を乗り回しています。
信じられないほど豊かなアメリカとあまりにも貧しい日本を比べると、誰もが日本ではなくアメリカに生まれたかったと考えるのは無理のないことでした。
赤塚も与えられた自分の運命を変えられないものかと、みんなと一緒に「裕福なアメリカ人に替われないか」と三日三晩、天に祈り続けたことがありました。
しかし、3日経っても替わることはなく、仲間達は「はじめから分かっていたことだ」と呆れた様子でしたが、赤塚は「やってみたから、本当に替わることはできないと分かったんだ」と腹の底から納得できたといいます。
皇太子殿下のご成婚パレード
果樹園で働き始めて間もないころ、日本では皇太子殿下のご結婚が決まり、仲間達みんなで働いていた農場主の家のテレビでご成婚パレードを見て感激に涙しました。
ところが日本人以外は全く関心を示しません。
その時赤塚は、日本の出来事を気にするのは日本人だけで、日本のことを本気で想い、将来を考えられるのも日本人しかいない。日本をより良く変えるのも自分たち日本人がやるしかないと気づきました。
自分の祖国、生まれ育った故郷、両親から受け継いだ身体は誰も変えることができません。運命と呼べるでしょう。天に祈っても他人には替われない。祖国も変えられない。
それなら与えられた祖国、故郷、家族をまず認めて、自分自身の力でより良く変えていくしかないと決意しました。それを赤塚は「運命の自覚」といっています。
そして赤塚は、「殿下が天皇陛下になられた時にお会いできるような人生を歩もう」「お会いできた時恥ずかしくないように日々努力して人格を高めていこう」と心に誓ったのです。
価値ある人生とはなにか
赤塚は人生や人の生き方について、渡米前から若者達ともよく話し合っていました。
生きがいのある人生とは、成功とは、「価値ある人生」とは、など議論は尽きず、結論も出ませんでした。アメリカでの仲間との間でも同様の話題が出ていました。
帰国後の自分の 人生設計を考えていると、やりたいことは山ほどありますが将来は漠然としています。これからは社会や時代の変化も激しく、科学も発展するのではないか。
考え続けてたどり着いたのが、人生を終着点から振り返ることでした。間違いなく訪れる最期の時、振り返って悔いの残らぬ充実した人生を送ることが最も大切だと考えるようになりました。
赤塚は人生の最期に想像を廻らすうち、みんなから感謝され、「ありがとう」の渦の中で終える一生を歩もうと決心しました。
毎日小さなこと一つでも感謝される事を実行し、それを日々積み上げていくことが、その後の人生の指針になり、あらゆる行動の基本となりました。
お金を儲けることや事業に成功することはもちろん大切ですが、たとえ財産をたくさん残してもみんなから恨まれ、憎まれて得た結果では尊敬されません。
真の人生の勝利者を目指して自分の事業や行動が世のため人のためになっているか、損得を超えて善し悪しで物事を判断しているかを常に自分に問い続けました。
人生の最期の時を意識しながら、世のため人のために活動し毎日感謝されるような日々を積み上げる。そのような日々の過程こそ「価値ある人生」なのだと気づいたのです。
(文・西村富生)
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著者紹介
西村 富生(にしむら とみお)
㈱赤塚植物園 執行役員。生物機能開発研究所研究開発部長。学術博士。
昭和24年三重県生まれ。昭和50年三重大学大学院農学研究科終了。同年赤塚植物園入社。
入社以来、新しい園芸植物の生産に携わる一方、花木類の組織培養法を開発する。また赤塚充良のもとで水の研究を続け、FFCの開発と応用利用の研究を担当している。
(2009年1月発行 FFCテクノロジーニュース vol.5より)